「海外で仕事をして」

埼玉大学時代

 1966年に入学した時の校舎は北浦和駅近くにあったが、そこは今では埼玉県立近代美術館がある県立北浦和公園になっている。
 歴史のある旧制浦和高等学校の校舎をそのまま使っていたので、小、中学校や高校の校舎よりも古かった。 4年生になった頃、現在の下大久保の校舎ができ、そこへ移転するはずだったが、当時大学紛争が全国的に起こった。埼大もその例にもれず校舎はバリケードで封鎖され授業ができなくなっていて、移転どころではない状況だった。体育の授業だけ下大久保のグラウンドで行なわれ、そこでサッカーをやったが、下大久保の教室での授業は一度もなかったと記憶している。
 1年生の時はESSに所属していて、授業が終わった後に校舎の横に集まり、サークルの仲間と語り合ったり、歌ったりしていた。夕闇が迫ってくると校庭では蝙蝠が飛び交いはじめるのだった。いろいろなことが懐かしく思い出される。
 授業で一つ特に印象に残っていることがある。宮原朗先生(後に教養学部長をされた)のドイツ語の授業の時間、先生はドイツ歌曲をドイツ語の勉強にと歌詞をプリントして用意されてレコードを聞かせてくれた。シューベルトのセレナーデ(Ständchen)やさざめく小川(Rauschendes Bächlein)など、当時新進気鋭のバリトン歌手Fischer-Dieskauの歌は素晴らしく、宮原先生ご自身も美声の持ち主だった。なお現在、家でよく聞くオペラ「椿姫」のCDでこのFischer-Dieskauがジェルモン役で「プロバンスの海と陸」を歌っている。

 ドイツ語の妹尾泰然先生にも大変お世話になった。先生は旧制浦和高校からドイツ語を教えられていて、埼玉大学文理学部、その後の教養学部でドイツ語を教えられていたが、私が2年生になったときに埼玉大学から成蹊大学に移られた。私は、ドイツ語学の研究者を目指そうと思っていていたので、妹尾先生が大学とは別の場所で主宰されていた中世ドイツ語の研究会に出席していた。出席者は大学の教授や講師、大学院生などであったので、私が一番若輩であった。研究会の内容は、中世高地ドイツ語(Mittelhochdeutsch)で書かれた「Tristan」や、「Iwein」などの原書を読む会であった。原書のテキストを妹尾先生が現在のドイツ語との違いや文法などの説明をしながら読んでゆくというやり方だった。

 妹尾先生は成蹊大学でもドイツ語を教え、サークルを指導されていて、毎年夏にはドイツ語の合宿を行っていた。合宿ではドイツ語以外の会話は禁止ということであった。2年生か、3年生の時だったと思うが、私も成蹊大のドイツ語合宿に参加を希望して、説明会にも行き、合宿での自分の愛称(ドイツ風の呼び名)まで決めたが、その後都合が悪くなり参加は取りやめることになった。

 当時、そのドイツ語サークルに所属していた成蹊大学の卒業生が、後に、私のドイツ時代に事務所を訪ねてきた。共通の先生の教え子ということもあり、彼女には仕事でも協力してもらったりもし、家族ぐるみで交流もした。いろいろなところに人のつながりがあるものだと思う。彼女はかなり前にドイツ国籍を取って、今はドイツ人になっている。

 私のドイツ語については、その他にも、ドイツ政府が世界各地で外国人にドイツ語教育などを推進する「ゲーテ・インスティテュート」が東京にもあって、ドイツ人教師によるドイツ語のクラスに通ったりもしていた。

 学生時代には、また、演劇をよく見た。教養の一環と考えたのかもしれない。「都民劇場」という芸術を鑑賞する組織があり、その中の、舞台演劇を鑑賞する「演劇」部門に入会して、そこが指定した演劇を毎月見ていた。当時、文学座、俳優座、劇団民芸、劇団雲などの新劇の劇団が活躍していた。特に印象に残っている舞台は、海外の作品では、「シラノ・ド・ベルジュラック」(文学座)、「桜の園」、「三人姉妹」(俳優座)、「リア王」(劇団雲)、「ベニスの商人」(劇団民芸)、「欲望という名の電車」(文学座)、など。ポーランドのムロジェックの「タンゴ」は、それとは別に文学座のアトリエで見た。

 国内の作品では、「ゴッホ」(劇団民芸)の滝沢修の演技が素晴らしかった。

 他には、「華々しき一族」、「大寺学校」(文学座)、「オットーと呼ばれる日本人」(劇団民芸)、「美しきものの伝説」、「千鳥」(俳優座)など。

 歌舞伎もよく見た。有楽町を通る定期券があったので便利だった。歌舞伎座の最上階に一幕だけ見られる立見席があり、そこで見た。当時たしか50円だった。学生にとっては安くてありがたかった。歌舞伎は様式美だと思う。

 最後にもう一度、妹尾先生のことを。先生は酒が好きで、1年生の時、帰りに居酒屋に誘われたことがあった。それまでの人生で、酒を飲む機会はなかったし、当時私は世田谷の自宅から1時間半かけて通っていたので、酒を飲んで酔ったら家まで無事に帰れないかもしれないと思い、飲みすぎないように気をつけて飲んだ。カウンターで先生から猪口に注がれた日本酒を、頭の中で、1杯、2杯と数えながらゆっくり飲んでいた。先生は気分良くなっていったようだが、私はまったく酔わなかった。8杯くらいまで数えただろうか。私が全然酔っていないのを見て、妹尾先生は言われた。「赤津君に酒を飲ませるのは、酒をドブに捨てるようのものだな」と。

(蛇足だが、その3年後、卒業間近かに高校の友人と当時流行っていた「コンパ」に行き、飲酒の楽しさを知り、社会人になってからはほぼ毎日、職場の仲間と飲むこととなった。)

 就職

 ドイツ語学関係の研究者の道を目指していたが、大学紛争や諸般の事情で就職の道を選ぶことになった。当時の就職は、今の学生のように就活というものはほとんどなかった。(私だけが知らなかったのかもしれないが。)教養学部の教務課の掲示板にいろいろな会社や団体などからくる新入社員募集の情報が張り出され、それを見て興味がある会社を選んで応募し、試験を受けるというシンプルな形だった。

 募集の中に日本貿易振興会(ジェトロ)という政府関係機関があり、内容を見てみると、職員数は全部で600人くらいだが、そのうち海外にいる職員が200人と書かれていた。仕事をするなら海外でと思ったので、ここなら海外勤務のチャンスがあるだろうと思って、応募することにした。一次の筆記試験は一般常識(いろいろな分野が含まれていた)と英語、それに外国語の会話(これはドイツ語で受けた)、二次試験が役員による面接だった。17名合格した同期に英語以外の外国語はスペイン語が2名いた。

ジェトロでの仕事

 ジェトロは民間企業ではなく、通産商産業省(今は経済産業省)傘下の政府関係機関である。正式名称は日本貿易振興会(2003年からは日本貿易振興機構)であり、戦後日本の輸出を促進するために作られた。特に日本の中小企業の輸出促進や海外進出のサポートをしている。仕事は大きく4本の柱があった。①貿易相談・引き合い斡旋事業、②海外調査事業、③展示事業、④海外PR事業である。1980年代からは国の方針で輸入促進事業も加わった。ちなみに、万博(国際博覧会)での日本館運営はジェトロが行なっている。

 国内の勤務は、青森、新潟、長野の各事務所で、それ以外は東京本部での仕事だった。

 海外勤務はドイツとポーランドだが、仕事を通じて、また、生活面でもいろいろ貴重な経験をすることができた。

 特にドイツでは、東西冷戦の厳しい現実と、それが終わるきっかけとなった世界史的な大事件であるベルリンの壁崩壊を現地で見る機会に恵まれた。

 ポーランドでは冷戦が終わり体制転換をしたが、冷戦時にワルシャワ条約機構の一員だったポーランドが、1999年にはNATOに加盟し、ワルシャワで行われたその加盟式典に私も参加し、歴史の大きな変化を体験することとなった。

中国

 何回か出張で訪れた中国は、そのたびごとに発展していて、中国の変化を自分の目で見ることができた。

 私が社会人になった1970年の世界全体のGDPに占める中国のシェアは2.6%(日本6.2%)だったが、1988年は2%(日本16%)、2010年には9%(日本7%)で日本を追い越した。そして2020年には17%(日本6%)と世界経済で大きな存在となっている。

(1)1975年

 ジェトロ入会5年後の1975年5月、中国南部の広州市で開催される広州交易会の視察のために1週間ほど出張した。当時は毛沢東、周恩来がまだ生きている革命第1世代の中国であり、歴史的に有名な文化大革命(1966~1976年)の末期であった。今では香港から広州まで汽車で乗り換えなしに行けるが、香港は当時、イギリスの植民地(租借地)であり、中国との間には国境があった。香港の九龍駅を出発し、羅湖駅が終点だった。国境となっている川に渡された小さな橋を歩いて行くと橋の途中には人民解放軍の兵士が国境警備をしていた。歩いて渡った先は深圳(しんせん)で、当時は全くの寒村であった。

 この深圳はのちに中国発展のもとになった経済特区の先駆けとなり、今では1300万人を擁する中国屈指の商工業都市になっている。

 この寒村の小さな駅の待合室では天井に大きな扇風機が回っていてかろうじて夏の暑さを和らげていた。汽車に乗り広州市に着く。中国国際貿易委員会(国貿促)の職員2名が出迎えに来てくれていた。1972年に日中の国交が回復し、それ以降、政府機関であるジェトロに毎年招待が来て、中国担当者が訪問して中国の現状を自分の目で見る機会となっていた。今回の出張もその一環で、中国担当の上司についてゆく、私はいわばカバン持ちのような存在であった。到着後、中国国貿促の人との打ち合わせを兼ねた夕食の後は時間が自由になったので、中国とはどのような国だろうかと一人で街を歩き回った。

 まだ経済力が低い中国ではネオンサインなどもなく、暗い街灯が所々にあるくらいで、商店も薄暗い照明だった。ちょうど北回帰線と同じ緯度なので5月はすでに真夏であった。当時の中国人の服装は男も女も人民服で、日本で言うなら戦前のモンペというような服装であった。街を2時間くらい歩き回ってホテルに戻った。経済力はまだ低いが、貧しいという印象はなく広州には南国的なおおらかな雰囲気があった。

 ホテルには、広州交易会の期間、外国人が多く来るので、外国語のできる若者が応援のためにかり出されていた。話をした若者は上海外国語学院の学生だとのこと、当時文化大革命の時期で、彼は自分は紅衛兵だと言っていた。彼は私を華僑と思ったようで、Overseas Chinese? と聞かれた。

 広州滞在中は広州交易会視察がメインの目的だったので広い会場を毎日見て回ったが、国貿促の担当者から、郊外の人民公社へ案内されたこともあった。車で移動中、ここから先は外国人の進入を禁ずるという掲示もあったが、同行者は政府の役人なので問題なく通り過ぎる。人民公社とは、中華人民共和国の農村に組織された行政部門、農工業生産部門、学校、医療、民兵などを含む独自の社会の末端組織である。人民公社内をいろいろ案内してくれたが、この訪問で特に記憶に残っているのは、ピンポン外交だった。中国人は卓球が好きだし、またとても上手だ。訪問の最後に、卓球をしないかと誘われた。一緒に行った上司は卓球部に所属していて自信があり、私も下手な方ではない。それぞれシングルスの試合をしたが、相手をした彼らの方が明らかに実力が上だった。しかし、客に花を持たせて、こちらに勝を譲ってくれた。

 広州での1週間は、日本の情報も世界の情報も全く入らない。香港に戻り、中国にいた間にサイゴンが陥落して、長く続いたベトナム戦争が終わったことを知った。広州に行く前にベトナム戦争の状況はもう末期に来ていたので、予想していたことではあったが。

 

(2)中国に2回目に行ったのは、1993年。当時ジェトロ新潟事務所の所長をしていた時だった。

 1992年にソ連が崩壊して、ソ連邦を構成していた国々は分かれて独立し、ロシアも一つの国になり、そして共産主義から市場経済の国に変わった。そこで、新潟県はじめ日本海沿岸の各県は環日本海経済交流の機会ととらえ、ロシア極東地方、中国東北地方との経済交流を活発化させようという動きが高まった。新潟はすでに交流のあったロシア極東と中国黒竜江省との経済交流に力を入れ始めた。これ以前も新潟県と黒竜江省とは友好県省関係、新潟市とハルビン市は友好都市関係で毎年交互にミッションを送って交流を深めていた。

 1993年のミッションは新潟側から出す番であった。ルートの選択では、体制転換のロシアで話題になっていたフリーマーケットがどのようなものかを視察することも目的に加え、通常の大連経由ではなく、極東ロシア経由のルートをテストすることに決まった。新潟空港から定期便の飛んでいるハバロフスクへまず飛び、そこで入国審査の手続きをした後、小型ジェット機に乗り換えてウラジオストックへ飛び、そこに一泊した。ハバロフスクでは長い時間をかけての入国手続だった。翌日は早朝にホテルを出て、ウラジオストック市民の出勤の様子などをバスの中から見て、ロシアと中国との国境へ向かった。国境のグロデコボの市長との意見交換の昼食をした後、汽車で国境を越えて中国へ入る計画だったが、これが大変な経験をすることとなった。

 会食後、駅に行き椅子もないプラットホームで立ったまま汽車を待ったがなかなか来ない。ホームにはロシアから商品を仕入れて中国に持って帰る大きな荷物を背負ったたくさんの中国人も汽車を待っていた。夕方になっても汽車は来ない。あたりはうす暗くなりはじめ、11月の空からは雪がちらついてくるが、それでもまだ中国へ行く汽車は来ない。ようやく汽車が来た時は完全に夜になっていた。汽車が中国側の国境の町、綏芬河(すいふんが)に着いたのは深夜0時を回っていた。

 翌日は経済開発区を視察したが、十分整備されていず、活用できるようになるのはまだ時間がかかるという印象で、中国北部は南部と比べて、まだまだ遅れていると感じた。経済開発区を見たあと汽車でハルビンに向かった。ハルビンでは、黒竜江省やハルビン市の政府幹部や実業界の人たちと交流を深めると共に、ハルビンを流れている松花江を視察し、松花江→黒竜江(アムール川)→日本海を経由して新潟など日本海沿岸都市への物流の可能性を調査した。(のちに山形県の企業が中国からこのルートで飼料の輸入を実行した。)

 帰路は、伊藤博文が暗殺されたハルビン駅から夜行の汽車に乗り、吉林省を通過し、遼寧省の大連に行き、そこから飛行機で成田に戻るという一般的なルートだった。

 

(3)1995年には、「部品発掘ミッション」をオーガナイズして中国に行くことになった。新潟県三条市や燕市の金属加工業者が生産コストを下げるため中国から部品を調達する可能性を調べるジェトロ独自のミッションだった。大連や上海で中国企業を訪問した。

 大連ではジェトロ大連の所長から中国の現状についてのブリーフィングも受けた。

 上海では、当時、市内を流れる黄浦江の東岸は利用されていない湿地帯だったが、この一帯を大々的に開発する「浦東開発計画」があったので、その現地視察も行なった。

 何もなかったこの地域は、20数年後の今では、テレビ塔や超高層ビルなどが林立して上海、いや、中国を代表する景色となり、上海の顔、中国の顔になっていて、歴史の変化を感じさせる。上海といえば、帝国主義時代に列強各国から植民地として一部占領されて租界という地域が存在し、外灘(わいたん)は古き良よき上海の面影をとどめていている。(この見方も、日本を含めた帝国主義国家からの視点でしかないが。)

現在の上海・浦東。27年前は何もない原野だった。

 ミッションの最後は深圳で、20年前に初めて中国を訪れた時には寒村であった深圳がその訪問の4年後、文化大革命終了後に最高権力者となった鄧小平が改革開放政策を掲げ、1979年に設置された最初の経済特区の一つとなったが、1995年のこの時にはすでに高層ビルが立ち並んでいて、発展のスピードに目を見張ったものだった。

 

(4)1996年には新潟県が組織した中国・東南アジア視察ミッションに県の依頼もあり参加することになった。新潟県知事や新潟を代表する企業のトップたちで構成されたミッションで中国や東南アジアの発展状況や投資環境を視察し、県内企業が中国や東南アジアに今後どのように対応してゆくべきかを調べるのが目的であった。訪問先は中国(広州)、ベトナム(ホーチミン)、タイ(バンコク)、シンガポール、インドネシア(ジャカルタ)であった。

 広州市は20年前に行ったときには、街頭も少なく、暗い街であったが、わずか20年の間に大きな発展を遂げていた。中国南部の自動車生産の拠点になっていて、20年でこれほど変化したのも驚きであった。うす暗かった町並みは大きく変わり、街にはネオンが輝き、高層ビルも建ち並び、近代的な都市に変化していた。中国は世界の工場と言われるようになっていた。

 訪問した各都市では、投資促進の役所を訪問して説明を受けたり、また、日系の銀行などから現地の投資環境の話を聞いた。

 

(5)2002年には、ジェトロ本部が中小企業の経営者たちのための中国投資ミッションを計画し、中国に出張した。ジェトロ理事長を団長とし、同行するスタッフを含めると総勢100人近くの大規模ミッションで、私は事務局長という立場だった。訪問都市は、山東省威海、北京、内陸の重慶、成都の4か所で、北京では釣魚台で朱鎔基首相自らミッションを受け入れてくれて、団長との会談も行なわれた。この釣魚台は、中国政府が外国の要人を受け入れる際に使われる迎賓館で、中国がこのミッションに大いに期待していることが見てとれた。

 私は事務局長という立場だったので、朱首相と握手する機会があった。中国の過去の首相は、中国国民に嫌われている人が多いが、この朱鎔基首相は珍しく今でも中国人から尊敬されている。一緒に映っているこの時の写真を中国人に見せ、彼と握手をしたと言うと、みな握手してほしいと言ってくるほどである。なお、朱首相の手は革命で鍛えられた堅いごつごつした手かと思ったら、正反対で女性のように柔らかい手をしていたのが印象的だった。

朱鎔基首相と中小企業投資ミッション(前列中央が朱首相)

 北京では、資生堂の現地販売会社やハイテクを研究している中国の大学も訪問した。

 北京のあと、中国の内陸部の四川省の重慶や成都に行った。重慶では日本企業のTOTOの衛生陶器の工場視察、成都ではイトーヨーカドーの店舗視察。同店の日本人責任者から、「ここでは安いものは売れず、高いものの方が売れる」との説明があった。

 「中国は世界の工場」ということは知っていたが、今や中国は世界のマーケットになったことを知ることとなった。

海外駐在

《ドイツ》

 1986年5月にドイツ北部のハンブルクに赴任した。ドイツの5月は、「麗しき5月」と詩人にも歌われる、まさにその5月にドイツに着任したのだった。

 赴任の1ヵ月前にウクライナのチェルノブイリで原発事故が起きた。放射能汚染の影響はドイツにも及び、私の小学2年と3年の子供が通う日本人学校では雨の日は放射能汚染の危険があるため校庭で遊べないという状況だった。また、スーパーからは牛乳が消えた。

 ハンブルクは中世、ハンザ同盟の自治都市で貿易で栄えた都市であった。ドイツにはほかにリューベックやブレーメンなどのハンザ都市がある。これらの都市は昔ハンザ都市だったことを今でも誇りに思っている。自動車のナンバープレートに書かれる都市コードは通常、各都市の頭文字だけなのだが、ハンザ都市はHを付け加えていて、ハンブルクはハンザ都市ハンブルクで「HH」となっている。ちなみに、リューベックは「HL」、ブレーメンは「HB」だが、ベルリンはハンザ都市でないので、「B」だけである。

ハンブルグは北海からエルベ川を百キロ遡ったところにある川の港とは思えないほどの大きな港を持ち、ドイツでもっとも豊かな美しい都市であり、一つの州でもある。当時西ドイツ最大の都市であった。当時は東西の冷戦のさなかで、ドイツは東ドイツ(共産主義国)と西ドイツ(資本主義国)の2つに分かれていた。私が赴任した西ドイツは戦後最高の繁栄を誇っていた。

 私が中学生のころ外国人と文通する「ペンフレンド」が流行っていた。友人から紹介されて私も始めたが、相手は1才年下のドイツ女性だった。日頃の手紙の交換だけでなく、誕生日とクリスマスにはプレゼントを交換した。彼女が送ってくるクリスマスプレゼントには必ず翌年のハンブルクのカレンダーも同封されていて、毎月市内各地を紹介するきれいな風景を楽しんだ。そのおかげで、ハンブルクはよく知った町となっていて、赴任して住むのに全く違和感がなかった。

ハンブルクの中心にはアルスター湖があり、ここでは市民がヨットやカヌーを楽しんでいる。

  さて、仕事の方だが、ジェトロ・ハンブルグセンターは、日本から派遣された駐在員は12人で、私の担当は展示事業であり、日本の中小企業が製品をヨーロッパへ輸出するのを支援するため、ドイツで開催される見本市(展示会)にジェトロ・ブース(日本ブース)を設けて、輸出取引の商談の機会を提供することであった。

 赴任する前年の1985年にはニューヨークのプラザホテルで五カ国蔵相会議が開催され、その時のプラザ合意によって円高が進み、日本の中小企業はアメリカへの輸出が困難となった。そのためジェトロがアメリカで参加していた見本市をやめ、その分がすべてヨーロッパのドイツに移されてきた。そのため私が担当する見本市業務は前任者の2倍になり。年間6件の見本市の実施、4年間で合計25件の見本市を実施することとなった。

 ドイツでは見本市が中世の時代から盛んに行われているが、ドイツでは卸売業者(問屋)がないため見本市が問屋機能を果たしているのである。

 ドイツの主要都市は見本市会場を持っていて、見本市が重要な市の産業になっている。

 特に、フランクフルト、ケルン、ハノーバー、デュッセルドルフ、ミュンヘンなどは立派な見本市会場を持っていて、国際見本市を数多く開催している。他の都市とは競合しないように、開催する見本市の業種はそれぞれ決っている。

 たとえば、一般消費財はフランクフルト、通信・事務機や産業機械はハノーバー、食品はケルン、印刷機、医療機器、工作機械はデュッセルドルフ、スポーツ用品はミュンヘン、玩具はニュルンベルク、皮革製品はオッフェンバッハなどとすみ分けができている。

 専門見本市の開催頻度は通常年1回だが、見本市によっては1年に2回、2年に1回、3年に1回などのものもあり、なかには10年に1回という見本市もある。開催日程は数年前から決められていて、出展者やバイヤーなどは、かなり前から準備を進めることができる。ドイツの見本市の特徴はそのように計画的であること以外に、会場を運営している会社自らが見本市の主催者になっていることである。そして、見本市会社は州政府と市政府の出資による3セクであることも大きな特徴であり、また、ドイツの見本市会場は規模が大きい。一番大きいハノーバー見本市会場の展示面積は50万平米で、東京ビッグサイトの約5倍の大きさである。ここには巨大な駐車場、それにヘリポートもあり、また、見本市会期中にはドイツ国鉄が汽車を乗り入れる専用の駅も作られている。

 私が4年間で実施した見本市を書き出してみたら次のようになった。()内は対象出品物。

1986年秋季フランクフルト・メッセ(喫煙具)。(1987年、1988年、1989年も実施)

1987年春季フランクフルト・メッセ(一般消費財)。(1988年、1989年も実施、1990年からは春季フランクフルト・メッセ・アンビエンテに名称変更)

1987年ケルン・ハードウェア・ショー(工具類)。 (1986年、1989年、1990年も実施)

1987ハンブルグ日本特別展示会(これはビジネス目的以外の日本紹介の一般展示会)。

1987年ケルン国際食品見本市ANUGA(食品)。 (1989年も実施)

1988年ハイムテキスタイル・メッセ。(カーペット)

ハノーバーメッセ・インダストリー 88(機械類)。

オプティカ88(眼鏡枠)(開催地ケルン)。

フランクフルト化学工業見本市(ACHEMA)88(化学機器)。

1988年フランクフルトAutomechanika(自動車部品)。

ドモテックス・ハノーバー89(カーペット)。

1989年春季フランクフルト・メッセ・アンビエンテ(一般消費財)。(1990年も実施)

1989ハノーバー国際事務・情報・通信技術総合見本市(CeBIT) 89(事務機器)。(1990年も実施)

ロボテックス・ハノーバー90。

1990年フランクフルト・メッセ・プルミエール(文具類)。

 担当した見本市で一番大きな規模は、毎年春に開催されるフランクフルト・メッセで、ジェトロ・ブースには日本から250人くらいの出展者がやってきて、バイヤーとの商談にのぞんだ。5日間の会期中の一晩、その日の展示が終わった午後6時以降にドイツ事情についての講演会と出展者同士の情報交換の場としてのレセプションを開催した。ジェトロ・ブースでは、企業単独の出展だけでなく、地方自治体が地域の地場産品などを取りまとめて参加するケースもある。出品物の一例を挙げると、岩手県の南部鉄器、福島県会津の漆器、石川県の山中漆器、愛知・名古屋の陶磁器、岐阜の刃物、京都の友禅染、東京の鉛筆、新潟県燕の金属洋食器など。

 会期中に世界中から訪れるバイヤーと商談がなされるので、ジェトロでは各ブース(1ブースは3mx3mの9㎡)に通訳を兼ねたアテンダントを配置した。総勢50人ほどのアテンダントを雇ったが、結婚してドイツに永住している日本女性がメインで、留学生や外国人も少しいた。

 ハンブルクは中小企業支援のためジェトロが参加する見本市はないので、見本市となると私は他の都市に出張する。出張期間は通常、会期(通常4~5日)にプラスして、現地での準備のため会期前3日間、事後処理のため会期後1日残って処理をする。フランクフルト・メッセは会期5日間なので、合計9日間の出張となる。なお、見本市開催中はホテル料金が2倍にはね上がるので、宿泊はいつも民宿(ドイツの一般家庭)を利用した。見本市が終わると、次に来る時のため同じ民宿を予約してゆく。

 なお、ドイツの民宿は、専門の宿屋でなく、子供が独立して空いた部屋を貸すという形である。見本市開催都市の民宿は見本市会社に登録されていて、見本市会場の中にあるインフォメーションで紹介してもらえる。車で国内旅行する際には、ドイツ国内どこに行っても、一軒家の垣根や塀に Zimmer Frei (空き部屋あり)という看板がかかっているのを見かけるので、前もって宿を決めて行く必要はなく、今日はこのあたりで泊まろうと決めてから探せば十分なのである。

ジェトロ・ブースのインフォメーション

〈生活について〉

 前任者の2倍の量の仕事になったため、通常、午後8時、9時まで事務所で仕事をした。見本市開催直前には午後10時、11時まで事務所で仕事をしたが、日本とは違って、車での通勤なので、夜遅い時間には道路はすいていて市内でも時速80キロくらいで走ることができ、昼間の半分くらいの時間の20分くらいで家に着けるのでありがたかった。また、日本ではまだ週休2日になっていなかったが、ドイツでは既に週5日制で土、日は完全に仕事からフリーになり、自分や家族のための時間を持つことができた。

 ドイツでの生活で日本とおおきく違うことの一つに、ドイツには商店の営業時間を規制する「閉店法」という法律があり、平日は午後6時半まで、土曜は午後2時までしか店を開けられない。さらに日曜日は全日営業ができない。そのため、土曜の買い物は時間との競争だった。しかし日曜に買い物ができないのは、日本のように日曜に買い物に付き合わされるということがなく、それはありがたかった。

〈ドイツでの楽しみ〉

 ドイツでの楽しみは一つはクラシック音楽が身近にあること、もう一つは夏と冬の休暇にヨーロッパの他の地域を旅行できること、その二つが大きな楽しみだった。

 ヨーロッパはクラシック音楽の本場で、特にドイツは多くの作曲家が出て、各都市には世界的なオーケストラが存在する。またオペラも盛んで、秋から春までのシーズンのチケットを前もって確保できるアボネマンという制度がある。ドイツにも慣れてきて、アボネマンを何シーズンか利用した。公演毎に自分で切符の手配をしなくて済み、毎月同じ席を確保できる。最初はコンサートでそれを利用したが、後半はオペラでそれを利用した。オペラはヨーロッパに行って始めてその楽しさ知った。有名なオペラで、曲も聴きなれたものが良い。「魔笛」や「ドン・ジョバンニ」、「カルメン」、「椿姫」、「アイーダ」など何回も観ているものは、曲もほとんど初めから終わりまで知っていて、リラックスして聴ける。やはりよく知っている好きな曲が素晴らしいオペラ歌手によって目の前で歌われるのを聴くのはとても楽しいものだ。

〈ドイツでの大きな出来事―ベルリンの壁崩壊〉

 ドイツに赴任した1986年の世界の状況は東西冷戦の真っただ中だった。その当時はドイツは2つあり、私が住んだのは西ドイツ。その東隣に東ドイツという国があった。西ドイツは自由主義国、東ドイツは共産主義の陣営に属していた。共産主義の東ドイツから西ドイツに逃げてくる人が後を絶たないため、1961年にベルリン市内の真ん中に壁ができ、東西ベルリンの往来ができなくなった。それ以前に、東西ドイツの国境は、東ドイツの国民が西ドイツに逃げないように鉄条網で封鎖されていた。東側の国では自由が制限されて、外国に行くのが難しい状況だった。

 私が住んでいたハンブルク市は東ドイツとの国境までわずか40キロしかなかった。ハンブルク市を出て東に向かうと東ドイツとの国境の村にぶつかる。そこで目にするのは、東に通じていた道路が遮断されていて、その先に鉄条網が見える。鉄条網の向こう、あるいは手前で東ドイツの警備兵と警備の犬がパトロールしていて、東ドイツ国民が西ドイツに逃げないように監視をしている。

 国境そのものは細いポールが数メートルおきに立っているだけで、国境そのものに壁などない。国境の東ドイツ側にのみ鉄条網が作られ、逃亡者の監視をしているのだ。時には鉄条網のこちら側に東ドイツの兵隊が現れることもあり、また、数キロ毎に高い監視塔が建てられ、厳しい監視が行われていた。

東西ドイツ国境にて(後ろに東ドイツの警備兵が見える。)

 東ドイツ国民は西側に行きたいと思っても監視が厳しく、国境を超えることができない。逃げるのも命懸けだ。国境を越えて東ドイツから西ドイツに逃げようとして殺害された人の数は現在調査中とのことだが、分断されたベルリンの壁を越えて西への逃亡に失敗して射殺された犠牲者は136名を数えるとのことである。

 私が、赴任した翌年、1987年の春、イースター休暇でベルリンを訪れて見たベルリンの壁はその堅固さゆえ、この先まだ50年も100年も続くのではないかと思われた。

 しかし、その壁がそのわずか2年半後の1989年11月9日に崩れるとは想像もできなかったが、歴史とは単に過去の出来事の記述ではなく、まさに生きているものだと実感した。よい時にドイツに駐在し、貴重な経験ができたことを感謝している。

 4年間ドイツで仕事をして、1990年の6月に日本に帰任した。ドイツに赴任したときにはカルチャーショックを感じなかったが、日本に戻った時のカルチャーショックは大きかった。

《ポーランド》

 ドイツ帰国から7年後にポーランドに赴任することになったが、ドイツで冷戦の終わりを経験し、その7年後に今度は共産主義体制が終了して市場経済に移行したポーランドに赴任するというのもまた何かの縁であったのかもしれない。ポーランドについてどのような国かほとんど知らなかったので、期待と不安が入り混じる気持ちで、1997年4月 17日にワルシャワに赴任した。
そのポーランドは一週間も立たないうちにすぐに好きになった。その理由は何だったのだろうか。日本人とメンタルが似ていることだったかもしれない。ポーランド人は、西ヨーロパの人々のようにドライではなく、日本人に似たウェットな国民性だった。ポーランドは、また大の親日国であることも知った。共産主義の暗いイメージとは反対にワルシャワの街も人も明かるかった。

 ジェトロ・ワルシャワの所長として、5年間にいろいろなことを経験した。仕事では、2本の柱、ODAの仕事と日本企業への支援を中心に行なった。

 また、仕事以外にも音楽や旅行を楽しむこともできた。5年に1回開催されるショパン・コンクールを聴くことができたのは幸いであった。また、ポーランドと日本との交流の機会も多く、ポーランドの親友と一日中森を歩いたこともあった。

ワルシャワ旧市街 (世界遺産に指定されている。ナチスにほとんど破壊されたが、戦後復興された。)

 

ジェトロ・ワルシャワ・スタッフ一同

〈ポーランドでの仕事〉

 ポーランドでの仕事は大きく分けて次の2つがあった。

1.ポーランド製品の対日輸出促進(ODA)

 1) 体制転換後、まずポーランド食品を対象にし、日本への輸出の支援をした。

 その内容は日本で開催される見本市「Foodex Japan」にポーランド企業数社をジェトロの予算で日本に派遣し、チーズやウォッカなどを日本に売り込む手助けをした。 

 2) 次いで、機械部品、電気部品を対象にした。

 機械部品や電気部品は、日本への輸出支援というよりは、欧州に進出している日系企業への部品供給を目的として、展示・商談会をワルシャワで開催した。

 3) その後、家具を対象にした。

 ポーランドの家具はドイツにはかなり輸出されているので、製品としても問題がないので、対日輸出の支援をした。

 家具の専門家を日本から呼び寄せ、ワルシャワでポーランド政府経済省や家具製造業者などを対象に対日輸出セミナーを開催するとともに、家具製造工場を訪問してデザインや生産技術の改善などのアドバイスをした。

 さらに、日本で開催される家具の見本市にポーランド企業の責任者を研修のため派遣し、日本のマーケット事情について学ぶ機会を提供した。

 

2.日本企業のポーランド進出への支援

(1)当時の状況について

 体制転換後、韓国企業がいち早くポーランドに進出。特に、自動車メーカーの大宇はポーランドで成功を収め、社会主義時代からポーランドで小型車を生産していたイタリアのフィアット社を抜く勢いだった。

 日本企業は慎重で、ポーランドがまた共産主義国家に戻る危険がないかを注視していた。

 私が赴任した1997年は共産主義経済から市場経済(資本主義)へ体制転換してから既に8年がたっていた。

(2)日本企業へのブリーフィング

 日本企業は、すでに進出していた西ヨーロッパから、あるいは日本から、ポーランドの経済状況や政治状況を知りたいと、ほとんど毎日といってよいくらい、ジェトロ事務所を訪ねてきた。

 私と所員で手分けして、ポーランド事情を説明した。日本企業来訪者たちはポーランについてほとんど知らないか誤解している人が多かった。

 来訪者の目的は、すでに西ヨーロッパに進出している自社の工場を東欧に移転すべきかを検討、あるいは、日本から新規の進出を検討することであった。 

 どの企業もワルシャワだけでなく、プラハとブダペストにも行き、この3ヵ国のうちのどこがよいかを比較していた。

(3)ポーランド政府とタイアップしてセミナーを開催

 パリ、ロンドン、デュッセルドルフにおいて、すでに西欧に進出している日系企業に対して、ポーランド進出の魅力を伝える。

 講師はポーランド政府投資庁の各専門分野の担当者(自動車、電機等)およびポーランドに進出した日系企業の社長たち。具体的には、パナソニック(乾電池)、日本精工(ベアリング)、東海ゴム(自動車部品)の3社。

 

3.日本についての広報活動

 ポーランドで、上記の業務以外に、日本についての広報活動をすることもあった。

 それは、ポズナン見本市(ポーランド西部)において広報ブースを設けて、日本についての広報を実施することであった。

 その際、ポーランド大統領と話をし、握手する機会もあった。大統領は会場巡回の際にジェトロ・ブースも訪れ、展示していたソニーの犬型ロボット「アイボ」に大きな関心を示した。

ポーランド大統領と経済大臣の来訪

★ ポーランドは世界で一番親日的な国であること、そして、その理由は次のようなものであるということを、私はポーランドに行って初めて知った。

① 18世紀末から長年ポーランドを支配し苦しめたロシア帝国。そのロシアをアジアの小国の日本が日露戦争で破ったことは、ポーランド人に大きな勇気と希望を与えることとなった。そのため、ポーランドはロシアから独立した1918年の翌年には、いち早くワルシャワ大学に日本語講座を開設したほどである。

② ロシアがポーランドを支配していた時、ポーランドの独立を企て失敗したポーランド人は政治犯としてシベリアに流されていたが、ロシア革命の際にはその数10数万を数えた。ロシア革命の際、革命勢力と反革命勢力が戦う内戦でそれらのポーランド人は悲惨な状況にあった。極東のウラジオストックには「ポーランド救済委員会」が設置され、せめて子供たちだけでも生かして祖国に送り届けたいという悲願を欧米諸国に要請したが成功しなかった。そこで、救済委員会は日本に援助を求めることになったが、日本政府は迅速にその救済を決定し、765人のポーランド人シベリア孤児を救ったという美談があったことも、親日の大きな理由になっている。

 ポーランドで仕事をした5年間の間に、仕事以外にワルシャワ日本人学校理事長やポーランド日本人会会長なども経験することになった。

★ポーランドでは、冷戦時代ワルシャワ条約機構の一員だったポ-ランドのNATO加盟に立ち会うことになった。1999年3月12日の夜、氷点下の気温の中、ワルシャワの無名戦士の墓があるサスキ公園で行われたNATO加盟式典に参加した。式典の最後には花火が寒空に打ち上げられ、私もポーランド人と喜びを分かち合った。

★ポーランドはショパンの国である。ポーランド人の気質はウェットで、日本人と似ていて、西ヨーロッパの人たちとは大きく違っている。ショパンが好きな日本人は多く、ショパン・コンクールのときには、ワルシャワの町は日本人であふれるほどである。それを見たマスコミはショパンは日本人だったのかとジョークを言うほどである。ショパンの色々な曲が日本人の心にスーッと染み入るのもメンタリティが似ているからだと私は思う。

   5年に一度開催されるショパン・コンクールは、若手ピアニストの世界への登竜門となっている。2020年の開催は新型コロナウィルスのため1年延期となり、2021年の開催となり、日本人の反田恭平君が2位、小林愛実さんが4位となったが、駐在時の2000年の開催を現地で聞くことができたのも貴重な経験であった。私は3次予選とファイナルをワルシャワのフィルハーモニーで聞くことができた。この時の優勝者は中国人のユンディ・リで、日本人は佐藤美香さんが6位に入賞した。コンクール終了後には、日本大使公邸で、大使主催のパーティーが催され、審査員の中村紘子さんや入賞者の佐藤さんなど関係者が招待された。私も参加できたので、中村紘子さんやコンクール参加者たちと話をすることができた。

   なお、ポーランド日本人会では、コンクールの1次予選や2次予選で敗退した日本人ピアニストのために追加の演奏の機会を提供することを目的とした別会場での演奏会を開催するのが慣習になっているとのことだったので、この時もそれを企画することにした。

 この時のコンクールには、ウィーンで演奏活動をしている盲目のピアニストの梯剛之君が参加していて、NHKは彼のドキュメンタリー番組を撮るのに力を入れていた。彼は1次予選で敗退したので、日本人会として彼のためのコンサートを設けることに決めた。当時、私は白内障の手術を受けなくては行けないためパリに行っていたが、日本人会の事務方に電話して、開催する旨を伝え、会場予約等準備を進めるように指示をした。本来なら理事会に諮らなければいけないのだが、その時間もないため会長である私の一存で決め、理事会には事後承認してもらうことにした。ワルシャワ在住の日本人にとってもショパン・コンクールの入場券を手に入れるのは難しいことなので、この別会場での演奏会はポーランド日本人会員がコンクール参加者の演奏を聴く機会にもなるという意味も持っているのである。

 NHKが日本のテレビで報道した時に見た人もいて、私が映っているのを見たと日本からメールしてきた友人が何人かいた。その別会場での演奏会当日、私は日本から来た家具の専門家をつれて地方にある家具工場への出張があったが、終わった後、急いでワルシャワに引き返し演奏会になんとか間に合った。

★ポーランドでの5年間の仕事がポーランド政府から評価され、帰国後、駐日ポーランド大使から感謝状を授与されるという栄誉に浴したのはうれしい限りである。

ポーランド大使から感謝状を受ける

ヨーロッパの歴史と文化とのふれあい

 ドイツとポーランドでのもう一つの楽しみは夏休みと冬休みにヨーロッパのいろいろな国へ旅行できることであった。ヨーロッパは狭いので近隣の国ならば車で行けるし、遠い国でも飛行機ですぐに行ける。そしてヨーロッパは歴史と文化の宝庫である。

 たとえば、ギリシャでは紀元前に栄えた古代ギリシャ文明、代表するアテネのパルテノン神殿は丘の上に今でも堂々とそびえている。また、もっと古い紀元前13世紀のミケーネの遺跡、聖書に登場するコリントなど。

 パリは市内のどれ一つとっても歴史と文化の宝庫だ。ルーブル美術館にはダ・ヴィンチの「モナ・リザ」、ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」、ダビッドの「ナポレオン戴冠式」など、世界的に有名な絵画が数限りなくある。撮影も自由だ。モネやルノアールやセザンヌなどの印象派の絵はオルセー美術館の方にある。パリはどこを歩いてもいろいろな時代の歴史を感じさせる。フランス革命の発端となったバスティーユ、いまはそこに新オペラ座がある。フランス革命後皇帝となったナポレオンの墓はアンバリッドに、ショパンの葬儀はマドレーヌ寺院で行われた。ベルサイユ宮殿はパリ郊外にあり、ミレーやコローが活動したバルビゾンはパリ郊外のフォンテーヌブローの隣にある。

 ナポレオンの像は、パリの高級ブランド店が並んでいるヴァンドーム広場の高い円柱の上にあり、一方、ナポレオン艦隊をトラファルガー海戦で破った英国のネルソン提督の像はロンドンのトラファルガー広場の高い記念柱の上にある。

 言い尽くせないほど、ヨーロッパ各国には、それぞれ歴史的遺跡や文化の痕跡が数限りなくある。

現在(定年後)

 海外でいろいろなことを経験する機会に恵まれたので、この経験を若い人に伝えなければという思いがある。数年前からけやき会の寄附講義の講師を頼まれ、年1回学生に講義をしている。学生に未知の国を紹介すること、国民性の違いや異文化交流、海外で仕事をする際の注意点などについて、自分の体験を踏まえて少しでも伝えることができればと思っている。

埼玉大での寄附講義

 そのほかに、現在いくつかのボランティア活動をしている。

 その一つは、NPO法人フォーラムポーランド組織委員会の委員の一人として、日本にはほとんど知られていないポーランドについての情報を日本に普及させることを目的とした活動をしている。毎年11月か12月に1日がかりの大きなフォーラムをポーランド大使館あるいは他の会場で開催している。新型コロナウィルスのためにこの2年間は開催できていないが、今年(2022年)は開催できると思っている。

 もう一つは、高校の同窓会の中に「小山台講師派遣センター」という組織があるが、この派遣センターの運営委員になり、2か月に1回、小山台高校卒業生を講師とした講演会を開催している。私も講師として、2年前にドイツとポーランドについての講演を行なったが、今は事務方としての活動や企画委員会に参加している。

 また、ボランティア活動とは別に、市民大学やロータリークラブなどでヨーロッパ事情についての講演を行なうこともある。

最後に

 人生の残りの日々、まだ何があるかは分からないが、ドイツでの4年間とポーランドでの5年間は、仕事、生活、どの一瞬を切り取っても我が人生で最良の日々であった。

 

(2022年9月4日改訂)