埼玉大学時代~教養学部を堪能

「哲学思想コース」に属したわけだが、哲学そのものに傾注するよりは、教養学部という曖昧かつ何でもありのこの学部がとても居心地がよかった

当時赴任されたばかりの長谷川道子先生の道元「正法眼蔵」ゼミは3年間、頭を抱えつつ楽しく学んだが、他の多くのユニークな特別講義から学ぶことも多かった。

特に精神分析からの犯罪心理学、動物行動学、大脳生理学などはかなり夢中にさせるものがあった。フロイトに嵌ったのもこれがきっかけ、大脳生理学の課外講義として東大医学部のホルマリン漬が並ぶ資料室の閲覧などもいい経験だった。

大学紛争はもはや収まってはいたが、成田紛争は真っ只中、体制におもねることを良しとしない学生気質は教養学部には残っていたように思う。大学祭では、「愛のコリーダ」猥褻裁判の渦中だった大島渚を招いてのディスカッションを教養学部の教室で開催、生協の湯飲みと一升瓶が回ってきて、飲みながらの討議は迫力があった

キティと働く

就職はサンリオ。子供たちの文化にかかわることをしたかった。

世はバブルに向かう絶頂期、販売促進部に所属し全国の百貨店で「サンリオフェスティバル」という子供たちの参加型のイベントを企画、GW・夏休み・正月休みは全国の百貨店を飛び回り、バブルに乗りまくった毎日だった。

その後、30代半ばでサンリオのキャラクター情報誌「いちご新聞」の責任者に。キャラクターの育成と販売促進、同時に紙面を通じて、全国のサンリオファンとの交流をする業務であった。

当時の「いちご新聞」は社長直轄の部署、事あるごとに社長室に呼ばれ、新商品・新キャラクターの最新情報の取材、休日はオープンしたばかりのサンリオピューロランドの取材から応援まで休日返上の日々が続いたものの、社内どこでも顔出すことができ、会社の動きはよく知ることができた。

しかし、バブル崩壊後、会社全体の売上といちご新聞の販売部数の伸びに苦しむ中、事業方針において社長と対立することが多くなり、結果的に異動となり地方の営業を担当することになる。

貴重な営業経験

ただし、いわゆる「飛ばされた」ことにより、百貨店から量販店、地方の小規模小売店まで担当するという貴重な現場経験をすることができ、改めてモノ売りの面白さと苦労を学ぶことになった。2年間の地方回りのあと、その経験が生きて、ネットビジネス勃興に合わせ、サンリオのネットショップの構築担当に呼ばれることになる。

すでに全国3000の実店舗(取引先)がある中、同じ商品をネットで販売することは許されず、独自の商品展開・販売活動を要求され、腐心する。実店舗では扱いにくい、家具、生花直送、高額商品、モバイル関連事業など様々な分野と取り組んだ。

脱サラ~職人と少林寺拳法

45歳で、サンリオを退社。理由は二つ。

ネットショップが拡大、自分の仕事が、商品企画・顧客応対などの現場から管理のウエイトが大きくなったのが不満、つまらぬ管理職より一人の職人になりたいと考えた。

もう一点は30歳から始めた少林寺拳法。体が動くうちにもう少し究めたい、仕事に追われる会社勤めでは叶わないと思ったから。

一人でモノづくりをしようと考え、レーザー彫刻機を購入。半年ほど独学で楽しんだ後、Yahoo!と楽天に出店、名入れ商品を受注生産で作る商売を細々と始めた。

主な商品は、迷子札と表札。売り上げ拡大は考えず、自分の作りたいものをこだわりをもって作ることにしている。子供たちも独立したこともあり、贅沢はできないが、最低限の生活はできる程度の収入は何とか。

一方の少林寺拳法、欠かさず道場に通うようになり、何とか指導できるまでの資格を取得、52歳の時、自分の道場(武蔵浦和道院)を開設することになる。また埼玉県全体の活動にも関わり、少林寺拳法連盟の事務局として普及・推進に精を出している。

ただし少林寺拳法は収益事業ではなく、あくまで道楽、自己修行の場。持ち出しが多いが、約30人の門下生と週4回、楽しく拳を交えながら、休日は県下の活動に勤しんでいる。

けやき会

脱サラしたときに、暇に任せて顔を出したけやき会総会で哲学コースの岡田先輩(現会長)に再会、いわれるままに理事を引き受けてしまった!今は、会報などの広報や名簿を担当させてもらっている。

 

ちなみに、ネットショップの屋号は「ごえんだま」(有限会社オフィス五円玉)、貧乏くさい名前である。

人生は「縁」、どう転がっていくか、せっかくの「縁」を大切に「円」に生きたいというのがモットー、面倒なことは嫌だが、この「けやき会」のお手伝いもできる範囲でかかわっていきたいと思っている。

 

※ごえんだま「楽天市場ショップ」

※少林寺拳法「武蔵浦和道院」